学生運動が華やかし頃、「思想の科学」という雑誌がありました。
その1971年9月号に詩人の山尾三省の文が掲載されています。
それは「エメラルド色のそよ風族の話」という題名で、物質文明に疑問を投げかけ、
「部族」と自称したグループの発足宣言と、文明を追っかけている世の中に 対する
メッセージです。 その中に彼らが生活の糧を得るために東京国分寺でラーメンの屋台
を引いた エピソードが載っています。
私たちの出しものの鹿児島ラーメンというのは 味には自信があったし、 南の出身
の人 はその濃い味のスープを好んでくれたので、 良い場所 さえ見つければ商売と
してやっ ていける筈だった。
~ 中略 ~
時には元気のいい仲間は、地巡りの居ないすきを見計らって駅前に店を出した。
するとその夜は五千円近くも売り上げて売り切れになるのだった。
日本中、いや世界中をヒッチハイクで歩回っていた彼らにとって、一番美味しく
感じられたラーメンは当時爆発的に人気があった札幌ラーメンではなく、世に知
られて いない鹿児島ラーメンだったのだ。
このあと1975年に山尾三省は国分寺の「ほら貝」という彼ら「部族」が作った
ロック飲み屋で 鹿児島ラーメンの生みの親の福山重七に出会ったが、そのいきさつ
は又の機会に。